2022-01-01から1年間の記事一覧

再発見!そうだったの その日本語75「裏面」

本来の読みは「うらめん」ではなく、「りめん」。物の裏側の面のほか、物事の表面に現れない部分、一般には知られていない事柄を意味する。ちなみに、「裏面」の対義語の「表面」も「おもてめん」ではなく「ひょうめん」が本来の読み方である。

再発見!そうだったの その日本語74「四六時中」

「一日中」「いつも」という意味だが、その一日が24時間であるため、単なる掛け算4×6(=24)の意から「四六時中」という言葉ができたようだ。しかし、江戸時代は一日を十二刻で表していたため、「二六時中」(2×6)と言っていたらしい。

再発見!そうだったの その日本語73「帰省」

「帰省」は「故郷に帰る」「実家に帰る」ことだけだと思っていた。しかし、「省」という字があるように親を省みる(みまう)という意味もあるようだ。「帰る」のに精いっぱいで、「省みる」ことを忘れてしまったことのないように気をつけたい。

再発見!そうだったの その日本語72「金字塔」

「金字塔」といえば、その漢字から金色の文字を彫りこんだり、金箔を張った塔を思い浮かべるが、金色とは関係ないようだ。実は、「金」の字に似た塔、つまりピラミッドのこと。ピラミッドのように後世に残る業績の例えとして使われるようになった。

再発見!そうだったの その日本語71「二つ返事」

気軽にすぐ承諾する様子を表した言葉が「二つ返事」である。しかし、「はい」を重ねて言うと、渋々応じている感じがして失礼にあたると解釈されている。そのため、「はい」と言い切ることを「一つ返事」という人がいるがそういう言葉ないようだ。

再発見!そうだったの その日本語70「あり得る」

「ありえる」と読む人はかなりいると思われるが、本来の読み方は「ありうる」であり、公の場では「ありうる」と読んだ方がよい。しかし、現在は「ありえる」も許容に変化しているとのこと。ただし「ありうる」の否定形「あり得ない」は「ありえない」と読む。

再発見!そうだったの その日本語69「さわり」

「さわり」をはじめの部分という意味で使うのは誤用。もともと、江戸時代に誕生した浄瑠璃の一種・義太夫節の中に義太夫節以外の旋律を取り入れた個所のことで、それが転じて「曲の聞かせどころ」つまり「話や物語の要点」の意味になった。

再発見!そうだったの その日本語68「場数を踏む」

「場数」というのは、経験をかさねた場所の数のことで、多くの場数を踏むことで経験をかさね、場慣れしていくことをいう。意味が似た言葉の「経験を積む」と混同して「場数を積む」と言う人を見かけたことがあったが、正しくは「場数を踏む」である。

再発見!そうだったの その日本語67「笑みがこぼれる」

「笑みがこぼれる」とは、ほほ笑みが顔いっぱいにあふれるという意味で、うれしそうな様子を、顔から笑みがこぼれると、例えた表現である。「笑顔がこぼれる」と間違った表現を使うことがあるが、そもそも「顔」はこぼれるものではないことを思い出そう。

再発見!そうだったの その日本語66「浮き足立つ」

「浮き足立つ」は、不安や恐れから、そわそわして落ち着かなくなるという意味。しかし、うれしくて浮き浮きする様子から、うれしくて落ち着かない時にも使っている人がいるが間違いである。「浮き足立つ」のは、不安や恐れからであることを覚えておこう。

再発見!そうだったの その日本語65「したたかな」

「したたかな人」といえば、「ずるい人」というイメージがある。しかし、「したたかな」は「強かな」と書き、本来は手抜かりなく確かだ、あるいは屈強だという意味。何をしでかすかわからない手ごわい相手への悪口としても使われるようになった。

再発見!そうだったの その日本語64「二の舞を演じる」

「二の舞」とは雅楽の演目の一つ「安摩」という舞のあと、それを真似た別の二人がわざと滑稽に演じる舞のこと。それが転じて、同じことをしたり失敗を繰り返すという意味で使われるようになった。「二の足を踏む」と混同した「二の舞を踏む」は誤用となる。

再発見!そうだったの その日本語63「団塊世代」

今は読み間違うことはないが、以前「団塊」を「だんこん」と読んでいた。戦後の昭和22年から24年生まれのベビーブーム世代を指す言葉である。うっかり女性が間違えて「だんこん」と口にした時、間違いを正してよいのか迷ってしまいそうである。

再発見!そうだったの その日本語62「方を付ける」

物事の決着をつける、始末をつけるという意味の「カタを付ける」は、よく似た言葉の「片付ける」から「片」だと思っていた。しかし、正確には「方」である。もともと収まるべき場所や向きに方角や方向を合わせることから「方を付ける」になった。

再発見!そうだったの その日本語61「孤立無援」

たった一人で全く頼るものがない状態を示す。確かに頼る縁もないということで「孤立無縁」と書きたくなるが、正しくは「孤立無援」である。もともと戦いの中で、見方から離れてしまい周りが敵ばかりで、援軍が来ない状況を表したもの。

再発見!そうだったの その日本語60「とんぼ返り」

「とんぼ返り」とは、行く先に着いて、すぐに帰ってくること。そのため、「とんぼ帰り」と書いてしまいそうだが、正しくは「とんぼ返り」である。とんぼは、まっすぐに飛んでいるかと思うと、急に向きを変えて飛んでいくことからきた言葉である。

再発見!そうだったの その日本語59「毛嫌い」

「けぎらい」は「気嫌い」ではなく「毛嫌い」と書く。鳥獣は、相手の毛並みを見て好き嫌いをするようだが、人間にはそこにどういう基準があるのかわからないので、こうした様子からはっきりした理由もなく嫌うことを意味するようになったらしい。

再発見!そうだったの その日本語58「足をすくわれる」

相手の足を急に持ち上げて倒す様から、相手の隙をついて意外な方法で失敗させることを「足をすくう」という。そのため、隙をつかれて痛い目にあった場合は「足をすくわれる」という。慣用句は、「足元」ではなく、「足」なので間違いないようにしよう。

再発見!そうだったの その日本語57「新規蒔き直し」

「まきなおし」と言えば、どうも「巻き直し」が頭に浮かぶが、「しんきまきなおし」とくれば「蒔き直し」が正しい。「改めて種を蒔き直す」という意味からのようである。もしかすると「巻き直し」は「巻き返し」の混同から出たのかもしれない。

再発見!そうだったの その日本語56「泥仕合」

泥にまみれて争うことが転じて、互いの失敗や欠点を暴露し合う醜い争いの様子を指す「どろじあい」という言葉、つい「泥試合」と書いてしまいそうである。試合と仕合はもともと同じ言葉だが、競技の意味でない場合には仕合と書く。

再発見!そうだったの その日本語55「機嫌」

その時々の気分や気持ちの良し悪しを示すということから、気分の「気」がふさわしいと思われ、つい「気嫌」と書いてしまいそうであるが、正しくは「機嫌」。「気嫌」の表記を許容する声もあるようだが、本来の「機嫌」を覚えておきたい。

再発見!そうだったの その日本語54「青天の霹靂」

「霹靂(へきれき)」とは雷のこと。青く晴れわたった空に、いきなり雷が鳴り響くさまから、予期せぬ変事や大事件を指す。「青々と澄んだ空」という意味から、慣用句としては「青天」だが、ことわざ辞典の中には「晴天」を載せているものもある。

再発見!そうだったの その日本語53「檄を飛ばす」

「激励する」という言葉から「激」が使われると思っている人が多いが、正しくは「檄」である。もともと「檄」とは、人々に同意を求めて、行動を促す文書のこと。「檄を飛ばす」とは「周知徹底」というニュアンスがあるため、相手が一人の場合はふさわしくな…

再発見!そうだったの その日本語52「善後策」

「ゼンゴサク」を始まりから終わりまで、準備万端に整えるという意味と勘違いして今まで「前後策」と書いていた。正しくは「善後策」である。後に残っている問題をうまく処理することを「善後」、そのための方策を「善後策」というようになったらしい。

再発見!そうだったの その日本語51「脚光を浴びる」

「脚光」とは、演劇の舞台の前面にあって、足元から役者を照らすもの。あたかも役者が照明を浴びるかのように、注目されることを「脚光を浴びる」という。人気ということで「脚光を集める」という言い方は使わない方が無難である。

再発見!そうだったの その日本語50「口をつぐむ」

「口をつむる」と言っているのは私だけではないのではないか。「つむる」は「瞑る」と書き、目編が付いていることからも目を閉じる場合のみ使われる言葉。口を閉じる場合は、「つぐむ」であり「噤む」と書く。語感が似ているだけに間違いやすい。

再発見!そうだったの その日本語49「強い絆」

新聞やテレビで「深い絆」という言い方をよく目にする。「絆」はもともと馬や犬などの動物をつなぎ止める綱を意味するため、「深い」ではなく、「強い」や「太い」といった言葉をつなげた方がよさそうだ。「関係」であれば「深い」という修飾語で問題ない。

再発見!そうだったの その日本語48「つつましい」「つましい」

「つ」の字の数が一つ違うだけで、また意味も似ているのでまぎわらしい。「つつましい」の漢字は「慎ましい」で謙虚で控えめなさまを意味する。一方「つましい」は「倹しい」あるいは「約しい」と書き、倹約して質素な暮らしをすることを指す。

再発見!そうだったの その日本語47「一縷の望み」「一抹の不安」

「一縷」は「一本の糸」」、「一抹」は「筆のひとはけ」のことで、どちらも「ほんのわずかな」という意味の言葉である。ただし、それぞれ定型句となっているので、「一縷の不安」「一抹の望み」と誤った表現をしないように注意しよう。

再発見!そうだったの その日本語46「琴線に触れる」

「琴線に触れる」とは、もともと心の奥底で共鳴すること、共感を覚えることを、琴の弦に例えたもの。素晴らしい芸術や文学に触れて、心を動かされることをいう。そのため、激しい怒りを買うという意味で使うことは避けよう。その場合の慣用句は「逆鱗に触れ…